なぜ走れるのか、なぜ走れなかったのか

現在、走ることは、ほぼ日課になった、
といっていいだろう。


で、今日走りながら、考え込んでしまったのは、
「なぜ、走れるようになったのだろう・・・」
ということ。
・走るのは、単調だ。(球技の方がたのしい)
・走ったら、苦しいし。
・なにがおもしろいかわからないし。
そう考えていた。


しかし、現在は、
・苦しくないくらい、ゆっくり走ればいい
・一定時間以上はしると、ずいぶんいろんなことを体が
  教えてくれる。それが面白い。
・頭も体もすっきりする
等々、走らないともったいないよな、
と思うに至っている。


そうして思ったのは、
なぜ、こういう走りをいままでできなかったのか?


もともと、運動は得意だ。
野球、サッカー、卓球、テニス・・・
おおよそ球技で、背の高さが必要ないものであれば、
大好きだった。
一方、ランニング、水泳、すなわち、
「繰り返し」はなんとも、面白くなかった。


楽しい、というよりは、苦しい、だ。


そんなふうだったのが、
なぜ、今、楽しいと思って走れているのか。


「そう思えるような自分になったのだ」


なぜ、今でもギターを弾き続けているのか。
大してうまくなれるわけではないとわかっているのに。
なんのために、弾いているのか。


そう思いながら、ギターを楽しんできた。


その時間が、ランニングを楽しめる自分に
してくれたのだ、と思う。


ギターもランニングも、
おんなじようなところがあるな・・・
そう思うと、更に考えが浮かんできた。


大して早く走れるわけではない、自分が
その走りから、楽しいと感じている、
この「何か」
を上手に掬い取っていくと、
技術的には大したことのない、自分のギター演奏でも、
「その何か」を感じさせられないだろうか・・・・


走っているときの、この気持ちいい風を、
自分のギターで、感じさせられないかなあ、


そう思う。



<去年の今日>
http://d.hatena.ne.jp/y1kirihara/20091123
<目に入ったニュース>

><