6-3  バッハの音楽

ある時期1ヶ月くらい毎日のギターで弾く曲をバッハの曲のみに絞って黙々と弾いたことがあった。市販の雑誌に載っていた楽譜を3曲集めて、その3曲をそればかり弾いた。「G線上のアリア」、「主よ人の望みの喜びよ」、「リュート組曲からのブーレ」以上3曲だ。
これは、飽きっぽい自分としては珍しいことだ。自分はいつも寝る前に楽しみとして弾いているのだが、「練習」といった意識はなく、楽しみとして弾いている。その際同じ曲を長い期間にわたって弾き続けるタイプではない。
また、楽譜を使って弾くときは、大体において楽譜どおりには弾かず、けっこう好き勝手に途中変奏してしまい、自己流のアドリブもいれる。
こんな感じだから、同じ曲を1ヶ月にわたって、しかも楽譜どおりに弾いている状況というのは、自分としては、相当めずらしい状況だ。
そのとき自分は自分で、それを珍しいことと自覚しながら、その理由を「自分にとってそういう時期なのだろう。」と思った。きちっと楽譜どおりに弾いて、そのままで、足しも引きもせず、美しさを感じられるものが弾きたいという欲求があったということだ。
バッハの曲は、構成が美しい。だから分かりやすい。『理詰めで曲を作るとこうなる』といったことを感じてしまう。『神様から頂いた曲』、『音楽理論的な確実性と音楽の理想的な不確実性の両面をバランスよくつかまえた曲』とか、そんな言い方が頭に浮かぶ。
音楽的に感じるものとして、全く逆に感じるのが現代音楽。聴くのも大変だが、弾くのはもっと大変。だけど、すごく面白いと感じる瞬間もあったりする。(自分は聴くだけだが・・・。また久しく聴いてないが)
それから「どフリー」のジャズ。曲のなかの歌の発展を目指したジャズが、今度は、どこまで歌(人が自然に作り出すメロディー)から離れていけるかを、試しているようなやつだ。
「歌」の端々にある、アーティキュレーション上のひらめきだけをデフォルメしたやつとか・・・。
現代音楽や、どフリーのジャズは、バッハのような、もっとも構成美にみちた、一番クラシック、とか、一番ポピュラーとかを感じる音楽をやって、それを突き詰めてしまうと、自然に、その対極として立ち上がってくるものかもしれない。(注:バッハの音楽でも、前衛みたいなのものもあるが、 ここでは、前述の3曲のような音楽理論的にノーマルな曲を意図している)つまり、バッハみたいな音楽は、普通の感性の人がいいなあと自然に思える音楽なのだろうが、こういったものを、やり尽くしてしまい、かつ、もしくは、それらをホームポジションとして内包してしまったという状況(つまり”いつも無意識でも弾いてしまう”ような状況)になってしまったとき、「それらに飽きてしまった」ということで、次、なんか新しいもの、次、次、次、といったところで、現代音楽やどフリージャズに行き着いてしまうものなのかもしれないと思った。
上記のバッハばかり弾いていた時はそんなことに思いが至った。同時に、「まあ、どうでもいいや。いまバッハ弾くのがとりあえず楽しいのだ。」と考えながら。
以下はそのバッハを楽しんでいた期間のある日の日記の記述だ。

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昨今は、ソロギターの楽譜(TAB譜)が山ほど出版されていて、ほんとにうれしい。ちょっとずつ買っているのだが、J−POP、クラシック、映画音楽etc・・・・けっこうな量になっていて、その日の気分で、いろいろ弾いている。
このところ、歌ものが好きで、ソロギターで如何に歌わせるか? ということを追ってきた。シンプルに、カラオケに似た楽しさがあるからだ。譜面どおりに弾くだけでは、大してカッコよくならない。『如何にフェイクして弾くか』がポイントだ。
これと全く違うなあと実感しているのがバッハ。崩して弾いても楽しいのだが、全く崩すことをせず、十分ゆっくり、心静かに、楽譜のとおりに弾くことに、更にひとしおのよさを感じる。「自分らしさを出す」なんてことなど、全く気にしなくていい。ただただ、その音楽に自分を委ねる。「音楽」のみになって、自分がなくなっていく、そんな感じ。
クラシックの方の目指しているのは、これなのかなと思った。楽しい。
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