次のフリコン

今日まで仕事で、
お盆休みに明日から入る。
その休みの最後の17日が
クラスタのフリーコンサートだ。


毎日オリンピックが面白くて、
練習量は十分とはいえない状況なので、
休みに入ったら、ギターを楽しむ
時間を増やそう。


さて、次のそのフリコンだが、
今回は、自分のオリジナル曲を弾く予定。
それらは、
クラスタのフリコンで出始めたころ、
何度かチャレンジしているが、
納得いかず、人前で弾くことは
封印している曲。
久しぶりに弾いてみようと思う。


これらの曲は、
自分としては、時々手癖みたいに
弾いているものなのだが、
それを「表現する」
ところにするには、
もうひとつイメージが足りず、
人前で弾く気になれないでいた。


でも、そうではなくて、
「今弾くとしたらどう表現するか」
として時々追っかけないと
いけないのかな・・・
と思ったもの。


さて、明日からの休みの時間、
うまくギター楽しんでいこう。


PS
オリンピックの野球、応援していたが
なかなか厳しい。
いろいろな感想があるのだが、
今日はパス。



<昨年の今日>
http://d.hatena.ne.jp/y1kirihara/20070813
<目に入ったニュース>
・五輪フェンシング:太田選手、楽しんで開花…日本初メダル
「努力の天才」が大きな一歩を刻んだ。13日、フェンシング男子フルーレの太田雄貴選手(22)が日本のフェンシング勢として初めて銀メダルを獲得した。「最大限の力は出せた。喜んでいいと思う」。闘志をむき出しにして強豪に挑み、日本のフェンシングの歴史を変えた若武者は、誇らしげにメダルを掲げた。
「雄貴ファイト」「あきらめるな」。観客席から声援が飛ぶ。剣さばきのスピードは世界トップレベル。一瞬のすきをつきポイントを奪うたびに、太田選手は雄たけびをあげ、ガッツポーズを繰り返した。決勝戦で力尽きた後、両手を挙げて声援に応えた。
 ファンの層が薄いフェンシング。太田選手は常々、「競技人口が増えないとピラミットの頂きも高くならない」と語り、自らのメダルでメジャー化を目指していた。準決勝後には「メダルの色がひとつ違うだけで、国民の皆さんの記憶に(フェンシングが)残るか残らないかが確定する試合。最大限の努力をする」とも話していた。
 小学3年の子供の日。元選手の父義昭さん(55)に家庭用テレビゲーム機を買ってもらったのと引き換えに、本格的に剣を握った。与えられた目標は「3000日特訓」。おたふく風邪になっても手の指を捻挫しても、練習を休むことは許されなかった。
 京都・平安中に入学した春。寺院に泊まり込んで行われた学校行事に、太田選手は剣を持参しなかった。「持って来て」。連続練習記録が途切れそうになると、泣きながら義昭さんに電話伝え、境内を使って親子で剣を交えた。「やらされている」という意識は消えていった。
 平安高校では高校総体3連覇。高2の冬に全日本選手権で最年少優勝を飾り、「史上最強の日本人」と呼ばれた。「努力を続ける才能があった」。中学・高校の恩師、竹内智一教諭(48)は言う。
 初出場だった04年アテネ五輪。準々決勝進出を逃したその日、落ち込む間もなくスタンドから世界の強豪の戦いぶりを研究した。「4年後に対戦するかもしれないから」。引退が近いベテラン選手には目もくれず、若手の試合だけに見入った。
 だが、アテネ後は順風満帆ではなかった。練習を続けるうちに息が詰まり、強くなっている実感がなくなった。フェンシングを辞めようとすら考えた。
 大学2年の冬。初めて練習を休み、4200日を超えていた連続練習記録に自ら終止符を打った。20歳を過ぎて休むことの大切さを知り、目標に向けて再び歩み始めた。「歴史に名を残したい」。そんな思いで、2度目の五輪に臨んだ。
 「恥ずかしいけど、頑張りましたと一言伝えたい」。試合後、そう語った。連続記録は途絶えても、父への感謝は忘れていない。
(こういう記事はピックアップしていかないと)


・五輪野球:ダルビッシュ打たれる…1次リーグ、不安な船出
北京五輪野球予選【日本・キューバ】二回裏キューバ1死三塁、先制適時打を中前に放たれ、打球の行方を見つめるダルビッシュ=五(木へんに果)松野球場で2008年8月13日、山本晋撮影 北京五輪第6日の13日、野球は1次リーグが始まり、日本はアテネ五輪金メダルの強豪、キューバと対戦した。ダルビッシュ日本ハム)が先発したが制球に苦しみ、五回途中で降板。打線も走者は出すが、キューバ投手陣を攻めあぐね、2−4で初戦を落とし、悲願の金メダルに向け、苦しいスタートとなった。
(自分は前回の大会や、ワールドベースボールを
 みていてなのだが、キューバの野球好きです。)

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