歌心からのジャズ

自分にとってのジャズの捉え方は、「歌の発展」という考え方だ。
ここでいう「歌」とはメロディー、すなわち曲の主旋律のことだ。ある曲を覚えるとき、もちろんメロディーを演奏する。何度も練習すると上手にメロディーを演奏できるようになる。メロディーはそれ自体美しさを持っていて、それを演奏することがその美しさを享受する最もいい方法だ。
しかし、何度も何度も演奏すればいずれ飽きてくる。そうすると、そのメロディーを少しいじってみたいという欲求がでてくる。これがアドリブの最初だろう。
ちょっと変更するのは、フェイクなどといわれるのだろうが、そうするととたんに美しさを取り戻す。自分らしさが入る。その曲のいいなと思っているところを、より際立たせようという内発的欲求からなされるものだからだ。メロディーはオリジナルから少し離れ、また新鮮さを取り戻す。こうしてどんどんオリジナルのメロディーを自分なりのメロディーに変えていくことで、その曲はスタンダードとして長く演奏される。メロディーは1通りでも、そのメロディーをどういう風に解釈して弾いていくか、ということが無限にあるからだ。
ジャズの歴史は、この「歌からの距離」で自分は捉え考えている。
コード的解釈の極限を追っていったバップ、旋律的なつながりを追っていったモード、距離感自体に着目し、どこまで離れられるかという方向にいった(つまり歌を感じさせるものを徹底的に排除しようとした)フリー、もしくは、メロディー自体に空間を作り、そこになにをいれてもいいんだ、という解釈をしたオーネットコールマン等、以上自分の勝手な解釈だが・・・そんな風にみている。
この歌心というのは結構強力だ。だからスタンダード演奏という、歌心、メロディーからの距離感をいろいろ楽しむジャズがいまだに楽しまれるのだと思う。
しかし一方、徹底的にこの歌心から離れていきたいという方向もある。先述のデレクベイリーなどがそうだ。
でも面白いのは、演奏における決め事というのは、歌心から徹底的に離れたフリー演奏の方が多くなっているのではと思われる点だ。「なにも決め事が無いように聞かせる」ことは、現代音楽の楽譜からわかるように、あるメロディーを弾くより、ずっと難しい。ずっと決め事は多いのだ。 
だから、スタンダード曲の持っているメロディー、曲構成を持っているほうが、「演奏の自由さ」は感じやすい。つまり、オリジナルからの距離感というものを感じることで、よりフリー感をそれとして感じやすい。
一方完全に歌心から離れようとする類のフリー(注)の方は、オリジナルのメロディーというものを作りたがらない。経時的に絶対後戻りしないといったような精神で演奏される。または、繰り返しがしにくいこと(つまり覚えにくいフレーズ)を繰り返す。こういうフリー音楽は楽しめるか? その音楽はなにを表現しているのか? 音楽は聴き方も自由だ。自分の感じるように聴けばいいと思う。

注)もちろんいろんなフリーがあって、歌心ばりばりのキースジャレットみたいなのもある。