5-8  叩き系、タッピング系

この節は第5章の最後におまけとして、このところよく演奏を聴くようになった、叩き系、タッピング系の方達について、その演奏を聴いて思ったことを綴ろう。

叩き系、タッピング系の方の演奏を聴く機会がこのところ増えた。故マイケルヘッジスからの流れで、プレイストンリードを始め、多くのギタリストがこの奏法を研究して、日本でも中川イサト氏や押尾コータロー氏への流れがある。この奏法も、もう十分市民権を得たといっていいだろう。
自分が実際に生でみた叩き系で極端な方は、城直樹氏で、プレイストンリードと同様叩き専門だ。クラスタのフリーコンサートでは、彼自身の演奏と彼のお弟子さん(ちなみに女性の方)が氏の曲を披露しているのを何回かみることができた。
他の方では名前を失念したが、両手でそれぞれ2本のギターを弾くという方もいた。
いずれも楽曲はすばらしいもので、当然ながらリズム的に面白く、さらにビジュアル的にもインパクトが大きい。ストリートなんかでやっていても、音量がきちんとでていれば足をとめて見入ってしまうだろう。
ただ、自分の感想としては、そこまで高めている方はなかなかいないと思っている。やはり本質的な難しさがあるのだろうと思う。
一演奏者としてこの奏法について考えると、「叩き、タッピングだけというのは飽きてしまうかもしれない」という気持ちを持っている。この手の曲は、曲としての仕上がりの変化としては少ないのではないだろうか、と考えてしまうのだ。 
叩き、タッピングでは両手を使うことから、音数の面では有利で、出せるフレーズの幅が格段に広がる。これが利点だろう。
しかし一方、1つの音における音色の表現としては、実際に右手の指で弾くことと比べると、さすがに狭い。
サックスとピアノを比べると、1音で表現できるものはサックスの方が上だ。(と思う)ピアノはその変わり複数の音を同時に出すことができる。ギターは「これらの中間」と自分は思っているのだが、タッピングだけに特化してしまうと、ピアノ系のみで、サックス系の1音での表現力を小さくしてしまっている気がする。もっと具体的に言うと、音の大きさのコントロール、弾く位置や爪の当て方にによる音色の違い、グリッサンドのような装飾音、こういったものが、タッピングでは出しにくい。
もちろん、タッピングによって、リズミックな面での表現が格段に広がるし、音数でも有利になる。従い、そちらを追っているということは十分わかる。でも、それのみになってしまわないかな、という気持ちも同時にもってしまう。
自分も実はタッピング系の曲の作曲にチャレンジしたことがあり、大学生のときに作った曲が、今でも1曲演奏曲として残っている。で、それを弾いてみるとこれまで綴ったようなことに思いが至る。
自分は、演奏ではメロディーを美しく歌いたい、と常々考えているのだが、それらはなかなか難しい。(・・・と自分の技術では言わざるを得ない)しかし、リズム的、音数的には、大変楽しい。

まあ、マイケルヘッジスとか押尾コータローのレベルまでいくと、もちろんタッピング音もコントロールされていて、叩き、タッピングも「その音がほしかった」という音楽魂ゆえということがよく分かるので、いい面だけが強調されてでているように感じ、特に不満な点はない。
以上より、自分としての結論は、叩き系、タッピング系もギターの奏法の中の一表現として、バランスよく使うのがいいのだろうなと思う。(・・・当たり前すぎ・・・)
なお、聴く機会としては、自分の感覚としてだが2003年くらいまでは、アマチュアの方でも、とてもたくさんのタッピングの方を聴く機会があった気がする。モーリスのフィンガーピッキングデーなんかでも、半分か、それ以上の方がタッピングを使った、というか、それがほとんどといっていいような曲のように感じた。しかし、それ以降は、その反動だろうと思うが、タッピングに終始しての曲というのは、減ったと思う。今はタッピングを入れるとしてもそれだけではなく、楽曲の一部としてとり入れるといった使い方になっている。どんどんかっこよくなっている。