阿修羅像 @九州国立博物館

生きているようだ・・・・


九州国立博物館に阿修羅像をみにいってきたのだが、
一目見た瞬間の感想。


土俵くらいの大きさの円の中心に、
台の上にのって、頭の位置は
2.5mくらいの位置だろうか。


ちょっと見下ろす感じで、
博物館のスポットライトが
あたっている。


エンジ色の顔、しかも3面ある。
手は6本あって、昆虫のようだ・・・・


以上、文章で書くと、
「異様」だし、「不自然」
なのだが、
実物は、まったく自然。
というか、「理想的なバランス」
であり、みていると
「時間が止まる」
感覚に襲われる。


あまりにきれいなので、
ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと
みていて、あきないというか、疲れないというか・・・。


そして、その感覚は、自分だけでなく
見ている人みんなに共通のもののようで、
多くの人が同じように
「動けなく」なっていた。


その飾られている土俵くらいの円は、
1mくらいの手すりがついているのだが、
その円周の2箇所に、係員の方が2名はりついており、
凡そ10秒おきに、だいたい角度にして30度くらいだろうか・・
強引に動く。


「それでは回りマース!」
「いち、に、さん、・・・じゅう!」
と声をだしながら、観客を自分がまわることで
まわしているのだ。
(その後、数10秒くらい沈黙)



そうでもしないと、
「動けない人」
で、いつまでも閲覧場所が占有されて、
人だかりがなくならないのだろう。


自分もその係員の人のそばで、
ぐるっと1周、阿修羅像の周りを
じっくり見て回った。



第一印象のすごさは、1周回る間
ずっとすごいままだった。


いや〜みにきてよかった。


過去にも、いい美術品で、
同じように、「立ち止まって時間を忘れる」
という時があったが、
そういった、
「美術鑑賞の楽しみの最たるもの」
をまた味あわせていただいた。



それにしても・・・


なんて「ものを語る表情」なのだろう。
3面それぞれに表情がある。
くやしさ・・・憂い・・・意思の強さ・・・
哀しみ・・・・
いろんな言葉が浮かぶ。
ただ見ているだけで、いろんな物語を
作れてしまいそうだ。


どんな気持ちで、何を表そうとしてつくったのだろうか。


博物館なので、もちろん、そういう興味のための
ヒントになるような説明が、壁に書かれていた。


阿修羅。インドでは、アスラという、
大変戦闘的な神様で、
なんと最高神であるインドラ(帝釈天)に戦いを挑み
死闘を繰り広げた。
しかし、あるとき戦いに明け暮れることに
むなしさを感じ、釈迦の説法を
きいて、仏法の守護神になった
・・・・とのこと。


このとき、釈迦は説法でなにを語ったのかというと
「懺悔」だそうだ。
「懺悔をすれば、救われる」と。
(なんか、キリスト教みたいだ)


で、この話しを聞いた、当時の皇后、光明皇后聖武天皇のお后)が
阿修羅像は天平6年(734)、母橘三千代(たちばなのみちよ))の
1周忌供養の菩提を弔うために造像したとのこと。


ただ、作ったのは、これだけではなく、
他にも釈迦の10人の高弟や、
8躯の神様、飛仏(雲みたいに飛んでる仏)
とかもいっしょに作って、
そのなかで、
「華原磬の鐘」を鳴らして、
懺悔の思いにひたったとのこと。


この鐘は、お経の中では、次のように語られているとのこと。


釈迦のお弟子さんが夢を見た。
「波羅門お爺さんがその鐘を鳴らすと、厳かな音がお堂に響き、
 それで思わず懺悔してしまった。」
そして、夢から覚めると、それを釈迦に語った


で、これを実現すべく、
像を作ったとのこと。


その鐘もかざってあった。


30cmくらいの、まんまるの鐘で
円周状の枠をもっていて、そこには
竜がかっこよく飾られている。


音が聞いて見たい!!!





以上、
これは、阿修羅像だが、他すべてで、
こんな調子で、
3時間くらいだろうか、博物館を
目いっぱい楽しんでしまった。


ちなみに、家内といっしょにいったが、
家内は半分くらいの時間で終わって
待ちぼうけ。
申し訳ない。
やっぱり、博物館とか美術館は、自分ひとりで
みにくるべきだな。


(以上、21日付けで書いたが、
 22日土曜日の出来事。
 その日のうちに書きたかったので。)


<去年の今日>
http://d.hatena.ne.jp/y1kirihara/20080821
<目に入ったニュース>


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