読書感想:日本語のゆくえ

日本語のゆくえ :吉本隆明/著
を読んだ。
実は読み終えたのは先週なのだが、
ちょっと思ったことを書いておきたいな
という気持ちが続いているので、書いておくことにした。


本書の概要としては、
「日本語における芸術的価値とは何か」
という、思想家、詩人として
長く一線で活躍している著者が
最も関心を集中している課題を、
母校・東工大で「芸術言語論」講義として発表したものを
まとめたものだ。
最後に「今の若い人たちの詩」を読んで、
感じたものを書いている。
まだ今年1月に出たばかりの著者の最新文芸批評。



いろいろ、感銘をうけた。
著者のこれまでの文芸に対する考え方を
総括したような本となっていて、
かつ、講義からの書き起こしということで、
わかりやすかったこともあり、数日で読み終えてしまった。


従い、面白かったところはいろいろあるのだが、
少し時間がたった今も、気になっているのは
最後の現代の詩人について。


著者は30人くらい現代の詩人の詩を
むさぼり読んだということだが、
その感想が、
「わからない」
「無」
であるとのこと。


「なぜ無なのか」
「なにを表現したくて書いているのか」
そこからして、わからない、
と書いている。


自分は、吉本氏は、
「いかに深く考えていくか」
にこだわりぬいている人だと思っている。


その人が
「わからない」
ということに、大きな興味をもった。


それと同時に、現代の詩人の方々は、
「それこそ吉本氏みたいな人に
 わからないものを書く」
ことこそが動機なのかもしれないと思う。


吉本氏は戦後のステージにおいて、
一番思想について、考えた人といっていいだろう方だが、
「現代の詩人」の方々は、
そういう人にこそわからない、
違う思想のステージ、次元の違うところ
で書きたかったのかもしれない、
などと思った。


自分は、そういった現代の詩人の詩を
読み込んでんでみたわけではないので、
今のところなんともいえないが、
本書に紹介されていたいくつかの
詩は確かに、「無」かなあ、と思ったし、
「いいたいことを直には表現していない」
(だから、いかようにも感じられる)
というようなものに感じた。


これから
「これは大変なことだぞ」
ということで、吉本氏は、さらに深く読み込んで
いきそうな雰囲気が、この章から読み取れた。


どんな読み込み方がなされるのだろう・・・
とても楽しみだ。



さて、自分がこのような興味を持つのに
至ったのは、この前に読んだ本からの
影響もある。
「シミュレーショニズム」:サラワ木野衣著
(サワラは変換ではでてこない)


ハウスミュージックとして、DJが


死体を切り刻むように
なにもないところから、
欲望だけを現前させるようなというか、
そういうものを評価、批評しているもの。


大変興味深い美術批評書だったのだが、
それは、最新書の
「なにもないところから美術が始まる」
につながっている気がする。


これも
「なにもないところ」
とのこと。


これは、吉本氏が現代の詩から読み取った、
「無」
と関係あるだろうか。


ここについても自分なりの
考えはあるのだが、これについては、
もう少し、自分の中で寝かせておこうと
思う。