養老孟司氏の「無思想の発見」という本を読んだ。
日本は、「無思想という思想」をもっている。
で、日本の世の中は、思想ではなく、”世間”にて
動いていく。
といったことが書かれていた。
自分はほぼ同意権で、自分の表現としては、
「和を以って貴しと為す」
だ。もちろん聖徳太子の言葉だ。
これが2条「篤く三法を敬え」(仏法だな)
や、3条「詔を承りては必ず謹め」(法律だな)
より上に来ている。
要するに、思想より、和の方を上にしているのだ。
「なにごとも相談して決めるのがよい」。
「相談(世間)の方が、思想(理想)よりよいよ」
と自分には読める。
「相談によって、決めるのがよかろう」というのは、
「決まった原理原則などというのはないのですよ」
(そりゃそうだ。全く考えが同じ人などいないのだから)
ということなので、まさに
「無思想という思想」
というのに、近いなと感じたのだ。
ちなみに
「和を以って貴しと為す」
は時として、馴れ合いを生じ、
談合などといった悪い事に繋がる事があることも
知っている。
でも、和じゃなくて、思想がよい、すなわち
「完全に正しい原理原則といったもの(理想の思想)がある」
とすると、最悪が現れることは歴史が証明
している。
それに談合みたいな和のマイナス面に対し、
和による自浄作用も
ある程度あるし、
(世間の悪い面を世間が咎めるという事)
少なくとも「理想の思想」ほど最悪ではなかろう。
なお、養老氏の意見では、
「和(話し合い)」を貴しとは
書かれておらず、
現実を動かしているのは、
「世間」としている。
世間は世論だったり、一般常識(そのときの)だったり
なのだが、これは、相談もなにもしなくてそうなっているものだ。
ということで、
上記の無思想と和を結び付けているのは、
自分が勝手に考えた事であって、
養老氏の本の中身ではありません。
為念。
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以上、出張の移動中の読書から。
さて、2泊3日間の出張からかえって
2日ぶりのギター。
ギターを弾くと
仕事モードの自分とまったく違った
自分を感じることができる。
ということで、
「ギター触りたいけど触れなかった期間後の演奏」
は「断食あけの食事」
みたいに、グッドでした。