スペース 間を意識して 

自分のお袋は習字の先生をやっている。習字における美しさはいろいろある。字の形ももちろん大事だが、そのほかにも勢い、スピード感といったものまで表現され、それらが総合的に表されると情感まで伝わってくる。奥が深くて面白い世界だ。
さて、その習字でお袋がよくいう「大事なこと」の一つに、「黒く書いた部分と、白い部分との割合」というのがある。つまり「何も書いていないスペースというのをどれくらい残すかが大切」なのだそうだ。確かにそう説明されてから、子供の習字なんかをみてみると、とても窮屈にみえたり、さびしくみえてしまったりするのが、字自体のよしあしに加え、「白いままの部分」の作り方にあると気づく。
表現においては、音楽に限らずスペース、間といったものは大事なのだ。
彫刻の腕のないミロのビーナスなんかは逆に、無いことを利用してさえいる。「意図的スペース」によって、無数のパターンの像を見る人の頭に描かせる。美しいやり方だ。
音楽では、自分はマイルスデイビスを聴くたび「弾かないことの美しさ」、「音を切ることの美しさ」を感じる。あのピークでつくる静寂、音の切り方、演奏を止めるタイミングというのはすごい。 
最近、この間の大切さを最近痛切に感じたのは、子供の演劇でだ。子供は劇団に入っていて、その練習を見学させていただいたのだが、間イコール演技といってもいいのかもしれない。特にに上手でない役者をみると、そのことを強く感じる。自分がたまたまみたその演劇はコメディーだったのだが、間が悪いと笑うにも笑えない。笑いたくても、ストーリーが即先にすすんでしまうので、それについていくのに必死で笑う暇がもてない。脚本は十分おもしろく、笑いは間違いなくとれるのだが、下手な演技がそれを殺している。 
ある演技がなされるとき、いい脚本家が書いた脚本であれば、みる人にとって、最初から結論が1つに分かるような台詞、演技となっていない。未来を知らないのだから、当たり前といえば当たり前だ。
そうすると、みているほうは、次の展開を無意識、かつ瞬時にいろいろ考える。そして、
「それでどうなるの?」
という、観客の声無き声を聞いたくらいのタイミングで次に進んでもらうことが必要だ。この「お客様が考える間を持つこと」が、役者の演技で大事なポイントと思う。そして次の演技、つまり演技の関係性のなかで、ストーリーが種明かしがされていく。だから、逆に考える必要のないところでは、ぽんぽんテンポよくすすんでもらって一向に構わない。というか、そうしないと今度はとてもダラダラした感じが出て来てしまう。きっと脚本家、すなわち「台詞のプロ」は、このような観客のイマジネーションを広げたり、結論づけたりすることを考えながらつくっているのだと思う。これが伝わるかどうかは、役者の「間の持ち方」が重要だ。
しかし、役者の難しいところは、「次のストーリーを知っていること」で、「知っているけど、初めて知ったように演技する。つまりうまい間をいれていく」ということになる。
子供の演劇で、子供にとってこのことが難しいというのは、それはそうだろうと思う。少なくとも「覚えるのに精一杯」という状況では、このコントロールなど無理だ。一部、天性で出来てしまう子が天才だ、などと騒がれるのもわからなくは無い。

さて、音楽に話を戻すが、音楽もまったく同様と思う。作曲者が表現したかったものは、演奏者に委ねられる。演奏者はいい役者になれるだろうか? 演奏者は「いい間」を持つことができるだろうか? 自分は、このようなことを自分の演奏において考え、そして感じようとしている。
スローな曲を弾くとき、とても美しくというか、かっこよく弾けるときと、逆に全然ダメなときがある。うまくいかない時の原因として、ピッキングの調子ももちろんあるが、もうひとつ、このスペース、間のとりかたがうまくいかないこともそのひとつだ。そんなときは概してやっかいで、最悪のときは、演奏している曲のなにをもって美しいと思っていたか、見失う時すらある。 音楽の中に「呼吸感」というか「息継ぎ」がなくなってしまっているケースだ。「文脈がみえない」「コールアンドレスポンスになっていない」なんていいかたしてもいいと思うが、「フレーズが意味を持たないない演奏」になってしまったということだ。そして、こういうことが一番実感できるのが、ライブ演奏だ。
結論としては、聴いている人が演奏のストーリーというべきものを感じ取ってもらえるような演奏をしていきたいと思う。それが、誠心誠意で熱くなりながらも、聴いている方のことまで感じながら演奏できればなあと思う。
そういうスタイルを追っていきたい。間が抜けた演奏にならないように。