1-4   テイクオフ

ライブ演奏における、最高の瞬間ってどんなだろう。
自分の大好きなジャズギタリスト、マーチンテイラー氏の教則本の中に紹介されたインタビュー
「あなたはある種、瞑想の境地に達しているようですね。」
との問いかけに対する氏の答えを紹介しよう。

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これは行うことも、説明することも非常に難しいのですが、やってみましょう。
〜中略・・・
私は幼い頃、座ってギターを弾いていると、何となく音楽が私を包むことを発見しました。私はある種、音楽の内側にいるかのように感じました。そして不思議なことが起こったのです。私は妙な、しかし快い重さを身体に感じました。それは暖かいスポンジの中に包まれたような感じでした。もっとも不思議なことには、私のギターが完全に消えてしまうのです。私と音楽だけが残され、それは本当に素晴らしい感覚でした。ギターは私をある種、より高い段階へと運ぶことができたのです。信仰をもつ人たちが、瞑想を通して
この段階へ達する話は聞いたことがありますが、私の場合、それは音楽なのです。これは非常に力強いものであり、今このことについて話しただけで、私の首の後ろの毛が逆立ってきました。
これが、私が音楽を演奏する理由なんです。
(THE MARTIN TAYLOR GUITAR METYOD 著者Martin Taylor with David Reed 発行2003年 ATN,inc.より)
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もう一つ、自分は、音楽は聴いたことがないのだが、著作が面白かったピーター・バスティアンの「音楽の霊性」(工学舎1994年)から。
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現実の感情的な混乱に直面することができない場合、音楽はある種の感情的な中毒として、自分はまだ生きているのだという日々の確認のために使われる。私自身もしばしばそういったトリップをする。だが、近年になって、私は自分の音楽化としての経験から、最も強い感情にさえ影響されない地点に至ることができた。たとえそれを演奏し、それを自分の肉体に感じていたとしても、私はどこかべつのところで完全な集中に入っているので、あらゆるもの−−−感情、思考、ホールの客席に見えるあらゆるもの−−−がつかむことができない影のように、正体が知れない幽霊のように心のなかを通り過ぎてゆく。そしてそこで、瞬間の純然たる要求に心を奪われて、自分が経験するあらゆるものに透明になり、風に舞う雪のように自らを誘うエネルギーの流れに調和するとき、まさにそこにおいて、この現実と呼ばれる夢の世界のまっただ中に一つの疑問が飛び出してくる。
「誰が演奏しているのか?」
〜中略
リズム音楽のミュージシャンは
「3セット目は燃えたね」
「やつはすべてを出し尽くしたよ」
「ほんとうにぶっとんでた」
といった言い方をよくする。クラシックの音楽家の間では「テイクオフ」という表現を聞いたことがあるし、同僚の演奏家たちが幸福感にあるれんばかりの目をして、互いに「やった!」と親指を立てているのを見たこともある。音楽院の教授の一人と話をしたことがある。彼は恥ずかしそうに、ほとんど当惑ぎみに、コンサートでそのたぐいの経験をしたことがあることをほのめかした。
その同じ夜、地元のバーで、私は人気者のロックギタリストに出会ったが、彼はこう言った。
「突然、地面から舞い上がるような最高の瞬間があるのを知っているだろう? ただそこに突っ立って、自分の手がフレットの上を駆けずり回っているのを見つめるばかりだ。あんなに上手くゆくわけないのにやれてしまう。演奏しているのはいったいだれなんだ? 君は説明できるかい?」
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自分は、テイクオフ、すなわち「いったいだれが演奏しているのだ?」といった状態、経験に、到達できるだろうか? ひょっとしたら、ずっとバスティアン氏のいうところの「音楽はある種の感情的な中毒として、自分はまだ生きているのだという日々の確認」というところのままかもしれない。
自分は上記の文書を最初読んだとき
「これは、一流のミュージシャンだけの話で、普通の人はとてもそれだけの”技術”は得られないよ」
と思った。しかし・・・注意深く読み返してみると、マーチンテイラー氏がこれを体得したのは「幼いころ」なのだ。ということは、技術的な話ではない。そして、
「そうだ、自分だって、昨日と全く同じ曲を同じ演奏でやっているのに、今日は最高に気持ちいいというのを 時々感じているではないか・・・」
そう思い直した。
そして、いまは次のように思っている。
『頭の中では理解していない・・・すなわち言葉にはできないが、その説明できない”音楽のよさ”を突き詰めていくといつか「テイクオフ」になるんじゃないか』と。  
さすがに、
「誰が演奏しているのだ?」
というところには至らないが、「曲の中にすっぽり入った」という感覚は、僭越ながら自分も経験としてある。これを発展させていくと、そのうち「テイクオフ」できるのかもしれない。    

クラスタのフリーコンサートでは、時々、インプロビゼーションや、曲のなかでのアドリブをやる。このとき、うまくいく、いかないを敢えて度外視して演奏する。そのとき自分の心の中に聴こえてくるものを追いかけてみたいときがあるのだ。稀だけど、神様が入っていると感じるときもある。
いつか一度でいいから、「私のギターが完全に消えてしまうのです」という瞬間を体験してみたい。